周辺環境
小田原のシンボル「小田原城」
小田原のシンボル北条氏の小田原城は、中世東国最大規模を誇り、あの武田信玄や上杉謙信も攻め落とすことができませんでした。まさに関東一の城でした。ちなみに相洋中学校のある位置も、当時の総構の内側、つまり城内になります。
石垣山一夜城方面を望む
1590年(天正十八年)、豊臣秀吉は天下統一の仕上げにはいりました。最後まで抵抗を続ける後北条氏を討つために、圧倒的な兵力を結集、早雲寺に陣取りました。そしてこの石垣山に一夜城を建設した後は、本陣をこの城に移したのでした。籠城していた後北条方は、あたかも一夜のうちに建てられたように演出された一夜城を見て、さぞ驚いたことでしょう。当時、この地で、天下人豊臣秀吉と、この後まもなく江戸に都市建設をはじめる徳川家康が、一体何の話をしていたのか、想像するだけでわくわくしますね。今は一夜城公園になっています。
早川方面を望む
早川港は、県西随一の水揚げを誇る漁港です。遠くに見えるのは真鶴半島。先端には景勝地三ツ石も望めます。右手奥の方向には、石橋山があります。平治の乱で京の都から伊豆蛭が小島に流されてきた源氏の正嫡源頼朝が、伊豆の地で北条氏と結び、打倒平氏の兵を挙げました。しかし、石橋山の戦いでは敗れてしまいます。その後、頼朝は舟で房総半島へ逃れました。ここに写っている海を、小さな舟で横切って逃げていったかもしれない頼朝の姿を想像できますか。
大久保神社(中垣謙斉の碑)
相洋の正門の前に道をはさんで山側にある神社です。神様をまつるというよりも、小田原城にあって長くこの神奈川県西部を支配した小田原藩の歴代藩主大久保家の家系をまつる神社です。廃藩置県で小田原藩が解散し、最後の藩主(とのさま)大久保忠良は小田原を離れて新しい首都の東京に移りました。小田原城下の人々は最後の殿様との間に御餞別(おせんべつ)をやり取りして城下町の東はずれ、山王口まで送ったといいます。殿様という方は昔の人々にとってはたいへんえらい人だったわけですから、藩士が中心となって、地元の殿様を記念しておまつりしようという機運が高まり、神社ができたといわれています。はじめは、払い下げられ解体された天守閣跡の石垣の上にあったのですが、天守閣の概観を復元するときに移転され、現在の地に落ち着いたとされています。急な階段の登り口には、幕末動乱の際、混乱する藩論を導いて小田原藩の存続に尽力した藩士中垣謙斉の記念碑が建てられています。旧来の政治制度を打ち破る新しい時代の動きに直面して迷う人々を導いた中垣謙斉とは、どのような人物だったのでしょう。
小峰
相洋のある小峰の土地は、幕末には小田原藩の調練場があったといわれています。譜代藩であった小田原藩では尊皇攘夷を叫ぶ志士や討幕をはかる公家や諸藩、諸勢力の集まる京都に警備の兵を派遣していましたし、ペリー以来の海防強化で江戸湾に出張していた者もいました。小田原の浜辺には台場も設けられていたようで、明治の古い地形図には海岸に台場の土塁が記されています。警備には藩士だけではまにあわず、非常の時のために領内各村々に設けていた「村筒」とか、「村足軽」「郷足軽」と呼ばれる人々を農兵として編成したそうで、小峰もおそらくはそれらの人々の調練の場であったのでしょう。村筒も藩士とともに京都に派遣されて、村々では働き手をとられた心配やその費用の心配などで寂しい思いや苦労をしたそうです。
小田原城の空堀
戦国時代、その威容を誇った小田原城は北条氏が滅びるとともに破却されました。今ある天守閣などは江戸時代の小田原藩の天守閣を模造したものです。北条氏の頃は豊臣秀吉の侵攻に備えて、城下町全体を包み込む「総構え」という防備をしたようです。城下町をを包む形で深く広い空堀を掘り、その土で厚く高い土塁を構えて大軍の包囲に備えたそうで、相洋の裏手の高地にはその遺構が残されています。高い土塁と深い空堀を目の当たりにすると、壮大な構えの中に、かつてのつわものたちの声が聞こえてくるようです。
板橋地蔵尊
相洋から早川に向かって下った板橋地蔵尊(地元の人からは「お地蔵さん」と呼ばれています)の境内に慰霊碑があります。戊辰戦争中、官軍(明治新政府軍)側か旧幕府軍側のどちらにつくかと迷う小田原藩の混乱の中で、1868年に起きた箱根山崎の戦いで落命した官軍軍監と兵士を供養する慰霊碑です。官軍も長州や薩摩、土佐などをはじめとした西国諸藩兵の混成部隊でした。鳥取藩から派遣されていた中井範五郎はこのとき小田原藩の動向を監視監督する軍監として、江戸に入城した官軍から派遣されておりました。上野で官軍に抵抗をはじめた旧幕府側の彰義隊に応えて箱根を越えようとした旧幕府側の「遊撃隊」によって箱根山中で殺害されました。